「言挙げぞする」~私的哲理風随筆を書いています~VOL.33
私の居合
●夢想神伝流「勢中刀」。可もなく不可もなく。
参段の部で優勝した生島さん
●3段の部で優勝した、渋谷の生島さん(右)。
浅草長沢屋
●浅草の「長澤屋」さん。弓道を始めて25年、ずっとここから白足袋を買っている。銀座や京都の老舗の足袋は私の足に合わない。先代は亡くなってしまったが、ここの5枚こはぜの白足袋は、そんなに高価でなく最高に履き良い。今回まとめ買い。
浅草長沢屋
●浅草伝法院通り。ここはいつもお祭ですね。
浅草伝法院通り
●浅草寺宝蔵門の裏側に「村上市の大わらじ」が奉納されている。
これを見る度に、江戸時代から続く「信夫三山暁まいり」と8月の「福島わらじまつり」の密接な「物語作り」と戦略的なPRが必要だと痛感する。
それはひとえに私が福島市の生まれという、郷土愛からなのだが……。
浅草の大草鞋

 万葉集の柿本人麻呂『万葉集』巻第13の歌に曰はく

 葦原(あしはら)の 瑞穂の国は 
 神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国
 然(しか)れども 言挙(ことあげ)ぞわがする
 言幸(ことさき)く 真幸(まさき)く坐(ま)せと
 恙(つつみ)なく 幸(さき)く坐(いま)さば
 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと
 百重波(ももえなみ) 千重波(ちえなみ)しきに
 言挙げすわれは 言挙げすわれは
(中西進先生の全訳注)
 あしはらの瑞穂の国は、
 神の意のままに言挙げしない国だ
 だが、事挙げを私はする
 言葉が祝福をもたらし、無事においでなさいと
 さわりもなく無事でいらっしゃれば
 荒磯の波のように 後にも逢えようと
 百重波(ももえなみ)や千重波(ちえなみ)のように 
 しきりに言挙げするよ 私は
 しきりに言挙げするよ 私は
 「遣唐使餞別歌」として、はるか唐に赴く人の無事を祈る人麻呂の歌です。

●言葉に呪力があると信じられた上代以前は、言葉に出して言い立てる、むやみな「言挙げ」は慎まれたのです。しかし「言挙げせぬ国」などといつまでも言っていると、それをいいことに、我欲剝き出しの権力者達を、利するだけです。それは阻止しなければなりません。
 それに言霊というと、負のイメージが付き纏いますが、柿本人麻呂のように「言挙げ」し、言葉に思いを寄せて祈りを顕在化させることも「ことのは=言の葉(片)」の力です。
 次の世代に残したい「こと」をきっちり伝えるのは、物書きとして義務だと思っています。
 このところ本気で「言挙げぞする」という、哲理的随筆集、あるいは物語的哲理集という、ちょっと変わった「文章」を書いています。12~3編ぐらいに纏めたいと思っています。

●「同根会」という経営研究会を立ち上げられた、我が師長谷川智泉先生が、昨年の3月ご逝去されました。本当は、生前に「言挙げぞする」を纏めて上梓したかったのですが、雑事に追われて、残念ながら叶いませんでした。
 「同根会」の会員一号は、ホンダ創業者の本田宗一郎さん、アシックスの鬼塚喜八郎さんなどです。その後も日本マクドナルドの藤田田さんなど錚錚たる創業者が会員で、26年前、自らも講演者として話された藤田さんのお話は今でも記憶に残っています。
 我が社を創立して33年、イベント企画、デザイン、広告戦略など様々な仕事をしましたが、中小企業の経営者・承継者の方々と企業の経営戦略などにも直截係わり、20数年ほど前から、MBA等の経営学に違和感を覚えた私は、原初仏教、空海の密教思想や、鎌倉仏教、論語、孟子、朱子学、陽明学、古神道、旧約聖書、コーラン、日本の古典など、様々なジャンルの資料を手当たり次第に斜め読みし、日本的な経営とは何かと、手探りで学びました。
例えば「親鸞」を知るのに、経典を読み、その解説から今に至る、清澤満之、暁烏敏、大峯顕等の論文を囓り、蓮如の組織作り(創価学会がそっくり取り込んだ、実に凄い組織です)まで範囲を拡げて読んでいくのです。それらの雑多な勉強は、今は殆ど頭に残っていませんが、ふとしたときに「親鸞ならこう考える」「蓮如はこうだろう」なんて思うのです。
 平成12年(2000年)から数年、中小企業の経営者・承継者の方々のために、週一回「心身経営学」講座を開きました。半ばボランティアです。
 しかし、当時、その理論は角がたち、私自身も完全に咀嚼できていませんでした。その後その「哲理篇」の一部を平成23年(2011年)7月に、経営書「経営の嘘」として上梓しました。入門書としては異質で難しかったようです。
 今回の「言挙げぞする」は経営者のためではなく、大げさに言うと悩める日本人のために……いや、迷い続けている私自身のために、様々な視点から執筆しています。

●さて、今もって迷いの真っ直中にいる私ですが、武道を多少囓っていると、その迷いの中で前向きに最善を尽くすことが修業だとわかります。つまり、「迷うこと」は、王陽明の言う「事上に在りて磨練す」という実際の行動や業務を錬磨していく、日常の中で生ずるものです。   
 と、さも偉そうに言っていますが、生きる事も不器用で、弓道も居合道も、真摯に向き合っているつもりですが、一向に上手くなりません。しかしそう思うことにそもそも恣意的な解釈が紛れ込んでいるわけで、どうやらもっと深いところに事の本質はあるようです。
 「明鏡止水」とはいかないまでも、審査などで「無私」に近い心境になった時には合格しています。上手くやってやろうと思ったときは、無残な結果に終わっています。

●9月の末に東京都の「城西地区の居合道大会」(新宿・中野・杉並と我が渋谷の一般、同地区にある大学、早稲田・明治・青山・国学院の学生が参加)が開かれ、七段、六段の部で自由演武をしたのですが、「技間違い」をしてしまいました。集団演武で、一瞬のことなので、注視していないと判らないのですが、真後ろで見ていた渋谷の仲間達からは「佐藤さんどうしたの?新しい技を作ったの」とからかわれました。
 居合を始めて20数年、何万回と抜いた技を間違うとは……。上手く抜きたいという邪心から、正しい呼吸を忘れ、自分を見失ってしまいました。気剣体の一致を修業の目的としている者として、何とも情けない限りです。
 「人生、恥を掻いてナンボ」という言葉がありますが、恥を掻くのは辛く、消え入りたくなります。  
 今回は「真剣勝負で命をとられたらそれで終わり」という気迫もありませんでした。同じ失敗を2度としないための稽古を新たに始めます。
 大会打ちあげの酒宴では、つとめて明るく振る舞おうとしましたが、酔えませんでした。
 前述の同根会会員第一号の本田宗一郎さんは「成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセント」という名言を残されました。 
 人生、失敗しても、前向きに愚直に生きることが、終わりのない修業なのでしょう。
  春吉省吾 2017.10.9   Copyrightⓒ 2017 Haruyoshi Shougo

Comment 0

What's new?