日本「相撲(角力)」考  VOL.34
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 明けましておめでとうございます。皆様には良いお年をお迎えのこととお慶び申しあげます。
 今年最初は、見過ごされている、あるいは国民の大多数が誤解している、相撲(角力)の「歴史」を踏まえて、私見を述べてみたい。
●最初に「国技」とは、その国固有の文化や伝統に根ざしたスポーツ競技・武術を指すが、厳密な定義は存在しない。例えば、韓国のテコンドー、カナダのアイスホッケーなどは国家機関から法令等で正式に「国技(national sport)」 として認められているが相撲はそうではない。
 「日本の相撲(角力)」のはじまりは養老4年(720年)に成立した日本初の正史「日本書紀」にあるとされる。
 「第11代垂仁天皇( 紀元前1世紀半ば、98年と7ヶ月在位したと伝承されている)は、伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行い、相撲の起源もこの天皇の治世に行われたと伝わる。
 「日本書紀」にはこのようにある。
 天皇は「当麻蹶速は天下の力持ちだという。これに勝つ者はあるだろうか」といわれた。一人の臣が進み出て
「出雲国に野見宿禰という勇士がいると聞いています。この人を蹶速に取組ませてみたらと思います」
 二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて蹴り合った。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した。そこで当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。
 何とも残虐で、荒々しい。これが相撲の起源とされるものだが、そこには美しさや、品格などさらさらない、荒ぶる野蛮な命を賭けた格闘技なのだ。これを相撲のルーツというのなら、我々日本人はまずそこをきちっと把握すべきなのだ。ここを知らずして、なにが「国技」だ、なにが「相撲の品格」だといいたい。  
 延暦11年(792年)、桓武天皇は律令制の徴兵制が機能不全となっていたのを改め、健児の制を導入する。相撲は朝廷の最強の戦士を養成するための「相撲」となった。天長10年(833年)の詔勅には「相撲の節はただに娯遊にあらず、武力を鍛錬するその中にあり」とある。貞観11年(866年)には節会の管理が式部省から兵部省に移管された。七夕の行事に付属した神事の余興の一つに従事していた相撲力士達は、天皇の衛兵となった。礼節や品格などは兵士として要求されることになる。しかし「相撲美」がことさら叫ばれるようになったのは、ずっと新しく、日本が「国家神道」に突き進んだ、昭和初期からのことである。

●日本の相撲のルーツは、広くアジアに求められる。実は2千5百年もの歴史を持つモンゴル相撲(ブフ)は、日本の相撲のルーツといわれている。
 草原の大地で行われるモンゴル相撲には、かつての日本と同じく土俵がない。モンゴル相撲では膝や肘や頭や背中などが大地に触れると勝敗が決まる。いわゆる土がつく(大地の神に祝福される)と負けになる。600種類といわれる多彩な投げ技が編み出され、なかなか決着がつかず3時間以上になる事もあるという。
 多くのモンゴルの無垢な若者達が、人生の全てを掛け、力士を目指して日本にやって来た。日本の親方制度という名の下に、閉鎖された環境の中で、様々な差別と戦い、理不尽な境遇から這い上がろうと努力する。階級が全ての世界だ。勝ち上がらなければ、モンゴルに戻るしかない。彼らにとっては、勝つか負けるかしかない。勝てば、モンゴルとは比較にならないほど、名声と金銭が約束される。彼らのDNAは、勝負のスイッチが入った瞬間に作動する。世間と隔絶された日本の相撲のルールに何とか従おうとしても、モンゴル相撲の本能がでてしまう。

●日本の相撲に、土俵が出来たのは天正年間から慶長年間にかけてであり、江戸の初期である。それまではただ人垣の中で相撲をとっていた。モンゴルとそう変わりはない。土俵ができて初めて相撲は競技になった。
 足を大きく振り上げて四股を踏み、大地の神々を請来して力士の体に栄光の加護を呼び込む。その土俵には特筆すべき「徳俵」の精神がある。土俵の瀬戸際と寛容な空間「徳俵」を生み出した日本的な感性は見事である。裸の大男達が、土俵上で何の武器も持たずに戦う姿に、日本人の多くが虜になった。
 江戸時代、大藩の大名はそれぞれに力士を抱え、「上様の覚えめでたき」を得るため、将軍上覧相撲は本場所以上の真剣勝負の場となった。
 各力士は主君からその旨を厳しく申し付けられ、負ければ抱えを解かれることさえあった。江戸後期以降、上覧相撲によって幕府は娯楽を制限された庶民の不満をかわしつつ、相撲興行の地位を与え、政治に利用した。
 時代は下がって、大相撲の仕切り時間に時間制限ができたのは、ラジオ中継が発端で、それまでは時間制限などなかった。制限なしでは番組編成ができないので幕内10分と決められたのだ。現在は昭和28年(1953年)に始まったテレビ中継に合わせて幕内4分にまで縮められている。このように、大相撲の歴史は天皇家や将軍家の思惑に流され、さらにラジオやテレビというマスコミの思惑にも流されてきた。

●相撲節会(すまひのせちえ)とは、奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事で射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。この儀式の中で、弓取式の起源だといわれる作法も行われた。勝力士にほうびとして弓を与えることは織田信長のときから始まった。
 これらをも含めて、相撲を国技や神事と見なす風潮が一部に存在するが、日本に「国技」はない。
 ではなぜ、相撲=「国技」と、皆が誤解するに至ったか、 笑ってしまうような現実がある。
 明治42年(1909年)に両国に初めて相撲常設館が完成した際、それが「国技館」と命名されたことが始まりだ。名称は直前まで決まらず、命名委員長であった板垣退助は「両国尚武館」という名前を提案した。この名称が決まりかけていたのだが、相撲好きの作家・江美水陰の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」という案にのった尾車(元大関大戸平)が、「国技館」という名称を提案した。相撲が国技だとされる「間違い」はここに始まった。
 決定後も、板垣退助は、東京朝日新聞に
 「『国技館』などという名前を付けたことは自分の不行き届きであった。後の祭りであるが、『武育館』でもよかった」と述べ、納得いかなかったようである。
 戦後、柔道や剣道、弓道など、日本武徳会の武道がGHQに禁止されるなかで、大相撲は存続し、日本経済の成長と共に、昭和30年代前半の栃若時代、昭和30年代後半からの柏鵬時代、昭和40年代後半から始まった輪湖時代、昭和50年代後半からの千代の富士時代、平成に入ってからの若貴ブームを経て、現在はモンゴル出身の力士達が、相撲界を席巻している。
 世界一強いというモンゴル相撲の遺伝子を持つ力士達が、一攫千金を夢見て、勝つために土俵に上がる。日本人力士を圧倒するのは当然のことであった。今回の事件で、つまらないモンゴル力士排斥や、中途半端なナショナリズムの昂揚は厳しく避けなければならない。

●横綱白鵬がよく使うという、張り手や張り差し、かちあげ、さらにヒジ打ちは相撲技の一つであり、ルール違反(反則)というわけではない。
 その技をくらって、妙義龍や勢は失神し、土俵に崩れ落ちたこともある。
 対戦相手の側頭部への強烈な張り差しは、対戦者の動揺を誘い、脳へ衝撃を与え、一瞬にして戦闘意欲を喪失させてしまう。
 白鵬が編み出したかちあげは、体力の衰えを回避するための悪知恵というのはたやすいが、勝ってナンボの熾烈な世界なのだ。確かに横綱白鵬はある時期、一人で大相撲を支えたという自負が、時として奢りに変わるのは猛省しなければならないが、ならばその白鵬に対して、どうやったら勝てるだろうと、科学的な対応をして稽古をしている相撲部屋はあるのだろうか。何回も同じ手で、黒星をつけられるとしたら情けない。今年の7月の名古屋場所で、御嶽海は上手に白鵬のはりさしを張り差しを躱して勝利した。

●力士をはじめ、相撲に関連する立場の方々は何かというと「相撲道」という言葉を多用する。
 実は、武芸に「道」を最初にはっきりと取り入れたのは、柔道の嘉納治五郎である。明治22年(1889年)その流儀を「柔道」と命名した。
 その柔道は、「精力善用・自他共栄」を基本とし、単に道としての技を習得するだけでなく、天下の大道を学ぶものと機会ある度に教示した。もし嘉納が「柔道こそ国技である」と強く主張していれば柔道が「国技」を担ったかも知れない。国際人嘉納治五郎の「道」の本質を、相撲関係者はどれだけ知っているのだろうか。
 その「相撲道」の組織は、現在、公益財団法人「日本相撲協会」という組織になっている。他の武道や、スポーツの団体組織と隔絶しているし、放映料や、税金面の免除もある。
 親方制度というものがあり、一度入門したら、親方は父であり、おかみさんは母と言うことになる。疑似親子制度が絶対の基礎にある。またタニマチ(谷町)とは相撲界の隠語で、ひいきにしてくれる客、または後援してくれる人、無償スポンサーのことである。地方巡業と称して、興業をするために、地方の有力者とも係わらなければならないなど、特殊な世界である。
 本来、大相撲の抜本的改革はここから始めなければならないが、それは相撲という日本の伝統的興業を否定してしまうことにもなりかねない。
 このところ私は、相撲に純然たるスポーツを求めてはいけないのではないかと思っている。 
 八百万の神々を鎮撫する伝統を背負い、ただ勝つために稽古し、身体を大きくすることに青春の全てをかける力士達はやはり特殊な存在なのだ。そして「ハレ」を全身に纏って裸で戦う。 
 思うに現在の相撲協会の行事は多すぎる。本場所も地方巡業も多すぎる。時にはどんな名力士でも、疲れが蓄積して無意識に「ふっ」と気が抜け、あるいは気が入らないときもあろう。八百長試合と疑われる取組もあったろう。ならば本場所も巡業も減らすしかない。しかしそれが出来ない現状のシステムでは、コーポレート・ガバナンスは限定的となろう。

●今回の暴力事件のようなことを根絶するのは組織として当たり前だが、私はこういう「世界」もあっていいと思っている。横綱審議委員会は白鵬の取組が、横綱の品格や美しさに欠けるとするその指摘は本末転倒である。そうであるならば、きちっとルールを改定すべきである。
 美しく勝つその「美学」は、日本人が求める精神の一つだが、潔癖すぎ、がんじがらめのルールの下では、日本の相撲は滅びる。
 二十歳・三十歳前後の若者達は神々しいが「神」ではない。生身のぶつかり合いによって彼らの精神は何時も揺らいでいる。人間の脆さも強さも混在する。日本人はそういうこと全てを含んで力士を愛し、相撲を楽しんできた。その余裕が本来日本人の原点なのだ。それを忘れて画一的な「形式美」を短兵急に求めると、おかしなナショナリズムに陥ってしまう。
 武道や相撲に求められる「至誠」・「礼節」を我々日本人は、大きく誤解している。何しろその誤解は今に始まったことではなく、実に「徳川時代」中期から始まっているから厄介なのだ。
 そこがきちっと捉えられていないから、今や「至誠」・「礼節」は形式だけのものに陥った。

●日本相撲協会の親方制度やタニマチの因習・慣習を、一般のマネジメントのように単純な組織変革に置き換えてはいけない。問題はもっと深いところにある。
 相撲が活性化できるかどうかは、実は日本人がグローバルな時代にどう生きていくかという問題と大きくリンクしている。一相撲協会だけで、すぐに解決できる問題ではないのだ。30年、40年とじっくりと焦らずに取り組まないといけない。拙速な解決は自己撞着に陥る。
 このところの我々日本人の発想は、かなり短絡で危うい。素早く変えなければならないことと、そうでない問題がある。本質を見誤ることなく、おおらかな心根を持って取り組みたいものだ。
                            2018年1月1日 春吉省吾

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